飽和の不安に広がる世界で

 死にたくない。
 死なないなら減らない。

 自分には親がいて、親のそのまた親もいて、
 時がたてば子供ができて、孫もできて。
 心の端まで愛おしいハズの人たちが増えていく。

 ネズミ算のように増えて、
 当たり前の光景を人は受け入れて、
 そこに、小さい違和感が宿る。

 ご先祖様の顔は知らない。
 写真に残っていても、声も、雰囲気も、全て聞いた話。
 先祖という大きなカタマリで「存在していたんだ」って知っても、
 一人一人は知らないのだから忘れることもない。

 死にたくない。
 死なないなら減らない。

 ・・・それなら、
 ずっと生きていられるなら?

 近くにいる人の顔は忘れない。
 それはずっと?
 いっぱいの近くの人はどうなるのか。

 例えば、名前がでてこない。
 ここにいるのに忘れられる。簡単に。
 宙を彷徨う視線も、張り付いた微笑も、とても悲しい。お互いに。

 忘れられるのは怖い。
 ずっと生きていられることは、恐らくずっと覚えていることではない。
 忘れたものを取り戻す、その白々しい修復作業さえ、
 心を重く、辛いものに貶めてしまう。
 死なないことでも苦しみはあり続ける。

 人は忘れていく生き物で、死んでいく生き物だ。
 死んでしまうと、思考も止まり、この世に遺した媒体に託すのみとなる。

 人が消える。
 どれだけ愛したのか、どんな表情をするのか、そんな想いも消える。
 心に残っても、消える。残るだけだから、あとは消えていくだけ。

 死にたくない。
 死なないなら減らない。

 生きて思考を巡らしているということは、「今」って居場所があること。
 生きていてこそ、「今」。

 生きてるから楽しいとも悲しいとも言えるのか。
 もしかしたら、死んだあとも感情が持てているのかも。
 ましてや近しい人とも会えるのかも。

 それでも持っていけないモノも確かにあって。
 生き続ける人とは終わりになってしまう。

 でも、終わった先はまた、終わってから考えよう。そこは見えていないトコ。
 また何か面白い続きが待ち構えているかもしれない。

 だったら今は、続いた時にまた楽しめるように、「今」を笑えるようなことをしよう。
 笑ってみたら、思ったより心が躍るって、生きてる証だと思えるかな。

 死にたくない。
 死なないなら減らない。

 「今」は戻せない。
 でも続く限り、喜びも、怒りも、哀しみも、楽しさも、全部味わえちゃう。
 死ななくて減らないなら、全てを溢れさせてしまう。

 心を動かせる「今」に、ひとまずは走ってみるとしよう。
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